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第四巻 わが最上の型譜 附録

相場大衆は適格性が乏しい 先ず適格者たれ
 車の運転士や、美容師などには、先ず資格試験にパスしなければ営業開始は出来ないが、相場の売買には、そうした資格を必要としない。しかし、それだけに危険性は多いと思う。国家試験を経たものでも、時に失敗することがあると云うのに、相場の如く、極端に利害関係の甚だしいものの取引には、無資格では、きわめて危険性が大きいはずである。

 法的な資格は必要としないが、しかし、相場取引への、適応性だけは、各自が充分持っていなければいけない、と私は思う。相場取引が危険であればあるほど、高度の適応性。いかなる取引でも、マスター出来る教養を身につけることが、とくに必要だと思うが、相場大衆の概ねは、意外にも、そうしたことには無関心である。

適応性とはどう云うことか
 然らば、適応性とはどう云うことか。と云うことであるが、それは、ここに書くだけなれば、極めてカンタンであって、先ず第一に、相場そのものがわかり切ること。ついで、第二に、相場の仕方が良くわかることであって、この二つだけで、すでに充分である。

 こう書いてみれば、極めてカンタンなようであるが、実際に即してみれば、初めのうちは、決して、爾かくカンタンではない。私自身も、二十才代では、意外にムツカシイことだと思ってもいたが、今から思えば、何んでもないことだったのである。それは、前述の第一と第二は、実は二つではなく、一つだったのである。相場の仕方がわかれば、すでに相場がわかったことであり、相場がわかれば、仕方はもはや手のうちに在る。従って、先ず「相場」と云うものがわかる必要がある。

 相場は生きものである。ということは、パッシヴと、アクチヴとに、実に敏感であって、それはあたかも精神現象の如くであるからであるが、もちろん相場そのものは、あくまでも自然現象以上のものであってはならない。二極化の如き人為相場ですら、私は不自然として排するのであるが、自然現象というものは、時間と空間と因果によるものであって、ただそれが、認識として成立するためには、時間と空間の形式によって規定されなければならないのである。

 にもかかわらず、往昔以来今日迄、ほとんど、空間のみが重視されて、時間はあまり問題にされなかった。これまでの書籍は、株価の書のみ多くして、相場の書に乏しいことに依るかも知れないが、それには、相場で本当に苦労したものは、容易に相場の書は書かない。ということに由来するかも知れない。往昔から伝わる相場の書が二、三はあるが、それはほとんど一年草、つまり農作物についてのものである。農作物は、季節と天候に密接しているので、あえて別だんに時間を考える必要はなかったのであろうが、しかし、それにしても、相場である以上、空間よりも時間の方がより重大であって、それをとくに強調したのは、わが一目均衡表三部作をもって嚆矢とする。

 時間と空間によりて、均衡の在り方を見れば、相場は極めてカンタンにわかるのであるが、それは三部作にゆずるほかはない。私が今、この一文を草しているのは、私の最後の書、わが最上の型―譜に、書いたか否か、定かでないこと、書き漏らしたであろうことなどを書いて、型―譜の附録としたいからである。以下、「相場」というものについて、余りに仔細にわたるようだが、経験上、大事と思うことを書くことにしよう。

「相場」というものは
 相場とは、要するに上げるか、下げるか、保合うか、の三つしかないのであるが、実際には、保合って上げ、上げたものが下げて保合うのだから、上げか、下げかの、二つである。しかし、それ故に、最も大事であり、とくに注目すべきは、「保合い」である。保合いは、過去が現在し、さらに未来が現在しているからであって、その銘柄の過去の習性、保合いの位置、日足の長短、力量、陰連、陽連の数。などが研究対象となる。極く常識論的に云えば、長期の小巾保合いは、大底圏内であり、短期の大巾波乱は天井圏内であるが、要するに、上げたものは、やがて下げ、下げたものはやがて上げる。ということであって、その場合、最も注目すべきは、各波動における時間と値巾であって、それの拡大か縮小かである。さらに大事なことは、相場一般と、その銘柄における時間と空間(値巾)の中心点がどこに在るか。ということを的確につかむことである。

 以上の外に今一つ。作為の相場を選び出す智慧が必要であって、相場が良くわかってくれば、特別に困難なことではないが、一般者としては、とかく材料観や、新聞雑誌に、セールスマンのすすめなどに、もっぱらたよっており、しかもそれ故に、自らの心をみつめることが出来ないので、とかく損をし易いのは、この作為の相場に乗じられ易いからである。

 私の現役時代、若くして相場観の不充分な時代でも、取引所と証券会社に密接していたので、作為の相場について、特別の考えはもたなかったが、昭和十六年から隠棲して見ると、矢張り問題とせざるを得ない。しかし、私は最も手数のかからないダウの向背に注力しているので、銘柄の騰落を見れば、作為の相場は一目瞭然であって、反って、作為の銘柄の状態により、相場の、中勢的、大勢的何合目であるかの見当をつけることが出来るが、一般者が、作為の銘柄に乗じられないためには、相当の苦心を要すると思う。

 相場の体(てい)は、相場自身であるから、相場を見んとすれば、相場以外のものであってはならぬ。新聞や雑誌を重視してはならぬ。というのが、私多年の持論であり、わが三部作にも、それを強調してきたが、最近のように作為相場の氾濫に直面しては、やはり一般者としては、そう云うことに精通している信用出来る雑誌などには、一応目をとおす必要があるかも知れない。と思うようになった。

 もちろんそれも、あなたが、相場そのものに精通するまでであって、アトは銘柄選定用の程度だと思うが、しかし、相場が良くわかり切る。ということよりも、さらに大いに大事なことは、取引の仕方であって、それに徹することさえ出来れば、作為の相場など、別に問題とする必要はないのである。

取引の仕方について
 私が敢えて、相場大衆はその適格性に乏しい。と云うのは、相場そのものがわかり切っていないことは、まだ良いとしても、最も基本的な、取引の仕法が、ほとんどわかっていないことと、それを待つことが出来ないからである。ここに基本的というのは、商内をしかけるギリギリの場と時であって、それをジックリ待ちさえすれば、かりに相場が良くわからないでも、決して失敗はしないはずである。そのうち、相場がわかるにつれて、基本的なものもだんだん拡張されるわけであるが、とくに大量の取引をするときは、相場がわかると否とにかかわらず、これから述べる基本的仕法によるべきである。

 由来、相場は大底を買って、天井を売れ。と云うが、それはプロのことであって、一般者としては、それではいけない。ことに取引所と、その日の相場に、距離のある人ほど、そのことは、一般者としては、それではいけない。ことに取引所と、その日の相場に、距離のある人ほど、そのことは、よくよく考えねばならぬ。基本的には、大底を確認しても、大部分の銘柄は、そこを買うべきではない。何故なら、「最少限の時間において、最大限の値巾を頂く」と云うわが一目均衡表の鉄則に、はまりにくいからである。一番底を確認したのち、さらに二番底を確認して、其処で買うべきであって、それを利喰いするのは、上げ相場のテンポを見ながら、時間的には基本数値と対等数値において、空間的には、その銘柄の受動的習慣的値巾と能動的、計算値によるわけである。そのためには、何よりもその銘柄の、過去の習性を。すなわち天底の位置、騰落の時間、空間等を良く知る必要があるわけで、そのためには、それに便利な雑誌等を一べつすることも良いであろう。とくに、銘柄によっては、二番天井もなく、二番底もない習性のものがままある。それは、株価変動であって、決して相場変動ではないから、それを対象とするのには、相当相場がわかってからであるが、とにかく、過去の習性を良く知る。ということが大事である。

 要するに相場は、大底を買って、天井を売る。流を私流に云えば、若買老売である。相場がわかる。ということは、先ず老若がわかり、しかもそのわかり方がタイムリーである、ということである。最も大事なことを落した。ここらで一つ、読者の気を抜くために、少し雑談をすれば、相場の老いは、最も買い気の盛んな時であるだけ、きわめてウリ易いのであるが、その意味では、相場はカイ易い時にカイ、ウリ易い時にウル。ということも亦、一つの仕法である。しかし、人間の老いは、なかなかウリにくい。たしかに、低級な意味での時代遅れではある。私は電気機器のことなど、家庭用品ですら、ほとんど知らないし、また知ろうともしない。私の娘倅などでさえ、とかく現代は―と言いたげであるが、近年、とくに「敬老」ということが言われている。永い間、ご苦労さま。でした。と云われることも、まことに有り難いことではあるが、しかし私は、敬老は承老または聞老、であるべきだと思っている。いかに時代遅れではあっても、明治、大正、昭和と、日本歴史未曽有の混乱時代を、とにも角にも、正しく生きて来たのである。ここまで生かされた社会の恩には、深く感謝しているが、それなればこそ、尚更、私の生活経験を聞いて頂き度いのである。只でも良いから、とにかく私の老を買って貰い度いのである。老いの生甲斐は、それ以外にはないからである。

 老いの雑談には際限がない。この辺で仕法に戻るが、一番大事なことは済んだので、アトはやや箇条書きていどにして、先ず、かなり相場がわかるようになっても、一般者としては、引かれナンピンはいけない。カラウリを相場の若い時に行う人が、案外に多いようであるが、カラウリは値頃観は禁物。静中有動。というが、静はだいたいは、相場の始めと終りである。時間的に、老いの老いを見定めて、二番天井を待つことである。

生活設計として
 とくに大事なことは、相場は、経済行為であるから、当然、生活設計のうちにあるものでなくてはならない。それも、一年や二年と云うことでなく、結婚後、二十年、三十年の、すくなくとも半生の生活設計の一つでなければならないが、そうだとすれば、少々の思いつきで、損をすることは許されない。今度は損をした。しかし僅かだから良い。と思う人は、私はどうかと思う。事実としての損は、一応損をした金額だけであるが、真実の損はどうか。その損金を授業料と為し得るとしても、それに費やした時間、つまり己れの命は取り返しがつかないのである。私はかねてから、相場は、銘柄は、必ず自分で見つけねばならぬ。と云っているが、そうでなければ、かりに儲けたからとて、自分のものにはならない。いわんや、損をした場合でさえも、決して授業料になるわけではないのである。ただし、相場を、生活設計のうちに入れるとすれば、先ず相場がよくわかり切ること、取引の仕法に徹底することを、とくに必要とするが、本来、真の生活設計というものは、男子一生の計画であって、それを決定することによって、己れの一生を規正する底のものである。だとすれば、先ず相場を生活設計のうちに入れれば、それ故に、相場が良くわかり、仕法にもやがて練達する。ということになる。つまり生活設計の立て方によって、その瞬間から、男の覚悟が違ってくるのである。今の世の中に、相場で利益するほど、これほどやさしいものは無いのであるが、それだけに、自己にきびしく、規正し、精進しなければならないのである。

 近年、連休があれば、直ぐ観光と云う。家族づれなれば、それも善いことだと思うが、しかし善くても次善である。いやしくも、男子たるものは、己れの職業をもって、最上の楽しみとすべきであって、それ故にこそ、日曜、祭日がつまらなくて、しかたがないから観光にでも、ということで上善をはなれて、次善につくのかも知れないが、私はやはり、日曜、祭日こそは、大いに勉強すべきだと思う。真の生活設計を確立している者の生活態度は、それ以外には考えられないからである。


 これで、基本的な、とくに大事なものは、だいたい終った。アト書けば際限のないことであるが、三部作に、書いたか否か、定かでないことを少し書き添えることにしよう。

 少し相場がわかるようになれば、馴染の株を選んで、それのみに力を入れること。今私は、仕手株、値嵩株、ツブレル心配のない株、大巾騰落の株、今年の株、などにより、三十数銘柄を限定して、他のものには目をくれないことにしている。猫のように動くものに目移りすることは、要するに待つことの出来ない人であって、それ故に、タイムリーに徹底出来ない人である。一期乃至一巡で大巾を頂ける銘柄を選ぶこと。一度大きく頂いたら、いつまでもその銘柄に即さないこと。三度、四度と頂いた銘柄は、その頂いた巾が順次縮小しながら、いつかは高値つかみに終るものであり、順次取引量が多くなっていれば、一層キケンである。どう調べて見ても、相場のわからぬ時は、わかるまで待つこと。幾ら書いてもキリはないが、先ずこれだけに徹して、待つことさえ出来れば、これで充分だと思う。

 ただ、この草文は、おそらく私の最後のものとなるだろうから、私が若い時、とくに勉強した孫子の兵法、六韜三略、諸葛亮八陣とくに同八門遁甲など、生活設計にも、非常に有益である。それを少し書いて見度いとは永い間の問題であったが、しかし、これを有益ならしめるのには、おそらく一千頁は必要であろう。何度も書き進んでは破棄してきたが、戦いと相場とは、プロはとにかく、一般者に取っては、大いに似て非なるものである。戦いは仕掛けるばかりでなく、仕掛けられる場合もあるので。さらに戦いの技術として、攻防の緩急、間絶が問題となるが、相場は、つねに仕掛けるのは戦者自身である。それ等の古書を、相場道に招来するためにも、また尨大な講究を要する。私のそれらの勉強はプロたらんとするためのものであったが、その精神と成果だけは、すでに三部作に盛り込んであるので、その程度で、自ら満足する外ないようである。

経験ということ
 最後に、「経験」ということについて、私もかつて、大いに考え違いをしていたので、最後に少し書いて、この稿を終り度いと思う。

 西田博士によると、「純粋経験を唯一の実在として、すべてを説明してみたい」と仰せられている。そして、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」と。

 高邁な哲学者の思索過程に、私のごときものが割込んで、何かを云々することには、非常な恐れを感ずるわけであって、むろん、博士の云われる純粋経験とは、私のそれは、私のその瞬間を除いては、ほど遠いものであるかも知れないし、博士のお言葉を、ここに借用してくること自体が、問題であるかも知れないが、しかし、私の経験。と思っていたものが、実は経験の私であった。ということだけは、言えるのではないか。そうだとすれば、私は、私の経験。と思って、そのまずしさを卑下していたのは間違いである。先験的というか、実は私を育てて呉れたものかも知れない。そう云うことを永い間考えてきたのであるが、昭和二十六年に入院した時、妻独語して曰く、あれだけ、永い間、真剣に勉強しても、死んだら、すべておしまいか、と。この時私は、わが三部作を世に贈ることに肚にきめたのである。私の経験。と思っていたものは、実は、素人をして経験せしめたものである。という、あたかも悟りのような心境だったことを、今も尚記憶している。


 かくして、わが三部作を世に贈ったのであるが、その時の私の心に誓った深き願いは、読者にして、幾十回となく、反復して勉強さえされれば、必ずや、各自最大限の財形をとげさしめる。ということであった。終戦後の民主主義時代においても、富の不平等だけは、容易に是正出来ない。政府も収入格差の是正を問題としてきたが、現代、一代でそれを可能とする道は、ただ一つ、相場に通暁する外にはない。もちろん、それをすすめるつもりは絶対にないが、すでに、そうした人には、徹底的に勉強してもらわねばならぬ。そのために、昨年の暮、読者の三分の一から、アンケートを頂いたが、読後まのないためか、八十五%が損をしなくなった。十五%が利益した。ということであったが、私はさらに大なる効果を期待しているので、急ぎわが最上の型―譜を世に贈ることにした。これが私の最後の書であるが、三部作の読者に、とくに利益して貰うため、さらに、三部作の読者でなければ、この適用が充分でないので、三部作、特に完結編の予約番号保持の読者のみにお頒けすることにした。この最上の型―譜は、これまで書いてきた、相場のわかり方、取引の仕方について、それ自体、最短距離を要求しているものであって、ただ待ちさえすれば、最も利益し易いものであるが、しかし、相場と云うものは、相場が本当にわかり切って、そして利益することが大事であって、ただ利益しさえすれば良い。というものでは決してない。にもかかわらず、一般者の、利益したい。ということだけでは、むしろ損をするのが当然ではあるまいか。なお、この型―譜は、前述の取引仕法の極限に現れるものであるから、一つの銘柄においては、相場一般の在り方により、(一)三年か五年に一、二度のものもあり、(二)一年に一、二度のものもあり得るが、(一)の方が最も効果的であって、私がとくに大量取引するのはこれによる。その意味では、この型―譜は、仕かけを主とするもので、これによって、相場一般を見んとするものではない。相場一般が良くわかるためには、やはり三部作の勉強に注力すべきである。尚、相場については、上げ、下げだけに捉われ過ぎて、一番大事な「保合い」の研究におろそかであるが、それは最もいけないことである。

 

(一九七七・九月末) 一目山人著